ダンシガシンダ
立川談志さんの訃報が伝えられた日、たまたま静岡市で立川談春さんの高座を聴いた。兄弟子の志の輔さんとともに、現在の実力派の落語家といえば、まず真っ先に名前が挙がる一人だろう。2人は談志さんが落語協会を飛び出し、立川流を創設した前後に弟子になった。東京の噺家は寄席で育つ、という既成概念を見事なまでに打ち砕いたこの一事をもってしても、談志さんがいかに革命児であったか分かる
30年以上前に生の高座を一度だけ見た。演目は「居残り左平次」。立て板に水、畳み掛けるようなリズムでぐいぐい引き込む。かと思えば絶妙な間でおかしみを醸し出す。声の大きさや高低、仕草の一つひとつまで計算し尽くしたであろう芸。もちろん面白かったが、それ以上に文句なく「巧い」と感じた
その巧さに自ら未練を持ちつつ、芸の奥義を生涯かけて別の次元に求めていった。語りだけでなく、生きざまそのものが落語であり、芸である、と。「開眼」したのは参議院議員時代。寄席で「沖縄開発政務次官をしくじった談志」とマクラを振るだけで天井が揺れるほど受けた、と述懐している
孤高の求道者は晩年、落語の神髄を森羅万象の受け皿となる「イリュージョン」と称し、狂気の世界にまで分け入ろうとした。登場人物が乗り移って勝手に喋りだす、と話したこともある。病と老いに苦しみながら、「神が降臨した」と振り返る「芝浜」など、伝説的な一席を遺した
歯に衣着せぬ毒舌の根底には、人間に対する飽くなき興味と愛情があったように思う。鋭い分析、批評の裏に、冷徹な観察眼と温かな眼差しが同居していた。そのせいだろう、文楽、志ん生、三木助、円生といった敬愛する名人の真似が上手だった。政界で師と仰いだ大平正芳元首相の物真似も天下一品だ
古今亭志ん朝さんが亡くなってちょうど10年。先代の三遊亭円楽さんが逝ってから2年。几帳面で繊細な気配りのできる一面を持っていた人らしく、真打ち昇進の順番に従って後を追った。自分で付けたという戒名は「立川雲黒斎家元勝手居士」。昭和の傑物がまた一人いなくなった。
ご冥福を祈ります。最近、ご冥福を祈るブログしか書いていないような…
冒頭、この2人に志らくさんを加える方が一般的かもしれませんが、正直言って志らくさんはよく知らないので。
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